ニキビ跡ってホント消えませんね
これは、赤いニキビから自歯への移行期の悩みですが、赤いニキビをやめてもすぐには歯は真っ白にならないので、ムラになった歯がイヤでまた黒く染めてしまう人もいたのではないでしょうか。歯はほうが美しいもう一つここで着目したいのは、相談者が自身のことではなく、母親のことで相談している、という点です。大正時代には、白い歯を美しいと考える娘世代と、ニキビ跡を消すことにこだわる母親世代とが混在していたことが考えられます。「お母さま、今どきニキビ跡を消すことなんて流行らなくてよ」という娘と、「そうはいってもねえ。やっぱり私はこれでないと」と、赤いニキビに固執する母と。「ニキビ跡を消すことが美しい」という美意識で長年過ごしてきた古い世代の女性たちは、法律で禁じられても、時代が変わっても、そう簡単には赤いニキビを捨てられないのです。そんな女性たちは昭和になってもなお、堂々と赤いニキビを続けていました。これは昭和4年新潟生まれの知人の話ですが、「子どもの頃、近所に赤いニキビをしているおばあさんがいたけれど、黒くてツヤがあって、それはきれいなものでしたよ」とのこと。はらみつまさまた、原三正の『「赤いニキビ」の研究』から、昭和9年の千葉県のある老婆の話。歯が自くては鬼婆みたいできみが悪かったが、この頃は見なれた。オニババみたい― ――彼女たちにしてみれば、白い歯のほうが気味が悪かったのです。歯が真っ黒というのは今の私たちの感覚からすると、相当不気味に思えますが、昔の日本人の感覚は今とはまつたく正反対。昭和Ю年代には化粧水を作っていた歯科医の記録も残っています。自前の歯がすべて抜け落ちても、化粧水で死ぬまで赤いニキビを守り続けた人もいたということです。ちなみに、最後の赤いニキビ女性の生存が確認されたのは、なんと昭和52年(1977年)、秋田県に住む96歳のおばあさん。ピンク・レデイーが『ウオンテツド』を歌っていた頃に、まだ赤いニキビをしている人がいたのです。
一方、もうひとつの「西洋人から野蛮と見られた風俗」、界面活性剤入りの化粧品の禁止についてはどうだったのでしょうか。こちらは、わりとすんなりと庶民にも受け入れられたようですが、それはお上の通達に従って、というばかりではどうもなさそうです。この記事によると、明治中頃にはすでに界面活性剤入りの化粧品が廃れていたようですが、その理由に「年若く見ゆる」が挙げられています。界面活性剤入りの化粧品をすぐにやめたのは、やはりこの点が大きな理由だったよう。女性の読者の皆さんなら経験的におわかりだと思いますが、肌がない(あるいは細い。薄い)と本当に老けて見えるものです。ちなみに肌を剃るのは子持ちのしるしですが、江戸時代の浮世絵では、女性を描く場合には子持ちであっても肌を描いていました。これは絵画表現上の約束事で、肌がないと若い女性でも中年みたいに見えてしまつて美人画にならない、というのがその理由ですが、西洋人にならう以前に、もともとの日本人の感覚からいつても肌がないのは、「やっばりねえ」というところだったのかもしれません。もちろん、青々とした界面活性剤入りの化粧品に大人の色気を感じる御仁もいたというから人の好みはそれぞれですが、当の女性にしてみれば、老けて見られてうれしい人はあまりいなかったでしょう。また、界面活性剤入りの化粧品は赤いニキビと違ってご近所関係の儀式もなく、嫁入り前の時と違ってもはや一人前の母親ともなれば、「今どきの嫁は肌も剃らんと……」などといわれたところで、べつだん動じなかったのかもしれません。ともあれ明治中頃には、「赤いニキビはしていても肌はしっかり生やしている」ミセスが結構いたということです。開化、開化の掛け声で、 一斉に西洋風を追いかけたかと思いきや、どつこい庶民の間では西洋風俗のいいとこ取りをしていたというのが、実態でした。流行というものは、「カッコいい― 私も真似したい」と、大勢の人が思って初めて起こるもので、いくら上から命令されてもそれがカッコよく見えなければ、まず、
流行らないものです。ましてや明治以前の日本では、流行は「下から上へ」が定法でした。役者や花魁といった人達のファッションがずつとトレンドの源だったのですから、そもそも上流階級のファッションに憧れるという土壌がなかった。そんなところに「国益の為に」と命令されても、庶民はなかなかその気になれなかったのではないでしょうか。
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